自我偈意訳

自我偈意訳

自分の子供なのに愛せない 家のごたごたが絶えない、謂れのない、差別や人権蹂躙、DVやどうしようもない人間関係の執着に悩まされてきた人、どう考えても霊関係かな?と疑われる事象のある人。かつては、庄屋や、冨農、または名家、名家でなくとも代々その土地に住んでいるひと、ここ何代かで衰退した家系の方で、トラブルが絶えない等々の方に、是非、試していただきたいお経があります。
法華経 如来寿量品十六、の自我偈(偈とは要点を簡略にまとめた詩)がそれですで。法華経の真髄が述べられている段で、天台宗でも日蓮宗でも、とても大事にされているお経です。大事にされているのには理由があり、それは、亡くなった方たちの思いを解放させる力があるお経だからです。お経を体得するために本来、お坊様は命を削って修行なさるが(稀な話ですが・・。)我々凡夫が読誦しただけでも、誠意と信仰をもって経に向かえば、必ず薄皮をはがすように、トラブルが収まっていきます。

このお経をあげ始めると、行じた人だけしか理解できない現象が起き始めます。お経は仏具屋さんで、天台宗の日常勤行と言えば800円ぐらいで販売しています。一日7回から100回読み上げてみてください。自分の耳に聞こえる程度の声で十分です。もし思い当る亡者がいるのならば、先に、誰某のために読みます、と言ってからあげていきます。最後に回向を必ずしてください。経をあげた徳を、順縁、特に逆縁の亡くなった方に教を読んだ徳をさしあげることを回向と言います。これがポイントになります。

この経を依経としている宗教団体が沢山あります。しかし神仏を敬うことと、団体に入ることは別ものです。人の集団は、集団になった時点で、個人の意思は排除され、特に宗教は人を支配したがるものです。同じ宗教を信じる自分たちと、それ以外の他との関係ですね。団体、個人に対する忠誠心で敵と味方を区分けし、物事を測り、優劣と階級を決めてしまう。階級社会につきまとう差別の典型です。

宗教の教条主義や、民族主義などクソクラエと私などは思うのですが、いかがなものでしょうか。実際、その本人から教条的な心情や、生まれた民族を引いた時、なにも残らず、それに執着し、それの七光りに固執する、その愚かしさは、何ものにも代えがたい愚者の行動です。衆愚の典型としか言いようがありません。

何かに縛られずに生きる為には、中立な立場を常に意識し、自立すること。ただそれだけが生きる尊厳を保証するものです。

このお経も、何度も何度も、お釈迦様が最も嫌った政治に利用されてきました。お釈迦様が、その弟子が「我、国の柱にならん」などという戯言(たわごと)を聞いたとしたら何と思われたでしょうか。その前に「君、浮世のことは、たいがいにしようね。」と言われたでしょう。ヒロイズム(英雄主義)はお釈迦様の教えからは最も遠いものです。

最初はお試し信心で結構です。苦しんでいる人にとって、効果のないものは意味の無いものです。ですが、何もする前から諦めていては、苦しみの中で、ただ朽ちていくだけです。経にすがることは、その方にとっては、死んでもやりたく無いことかも知れませんが、騙されたと思って、経にすがり、もがいて下さい。その上で本人が必死に努力すれば、苦しみは必ずほどけます


自我偈の意味を解りやすく知りたいと言うかたがありましたので私の解釈する自我偈の意訳を載せることにしました。

文責は全て私にあり、研究者のかたのそれとは違う解釈もあります。願わくばこの意訳が多くの生者および、亡き人々の迷える魂に響き、苦海から逃れる切っ掛けが出来ますよう心から祈願しここに公開いたします。


意訳 自我偈

われわれ仏の悟りを得た行者が仏陀として教えを説き始めてから、

数限りない年月が流れた。

その間、数えきれない程の人々が教えを受け、仏となる道に導かれた。

今生に生まれた者には必ず死が訪れるように、私の肉体も滅びる。

これは仏でも否定し得ないこの世の法則である

しかし、仏としての存在は肉体を超えた形であり続け

求める人々に常に教えを説いている

特別な霊眼(れいがん)のある者にはその姿が見えるが

煩悩の濁塵(だくじん)に汚れた目の者には見ることができない

人々は私の死に出会い、私の残した骨や衣鉢を懐かしみ塔を作り供養する

人々の信仰心と信仰による行いが熟し、

心から私の姿を見ることを望むのならば、

霊鷲山(りょうじゅせん)で法を説いた時のように弟子とともに必ず姿を現そう。


仏に信を起こす者よ

仏は不滅であるがこの肉体は滅する物である、

しかし肉体が滅しても、仏は存在し続け、信を起こす者には、

住む場所を問わず、常に正しい教えを説きつづけている

このことを知らぬ衆生は、救いの方法がないと思い込み、

いまも輪廻の迷いの海に苦しんでいる

それゆえ、私は軽々しく姿を現さず、

人々がこの苦海に追われ、ここから逃れるため、

必死に仏を求めたとき、その真心に応じて姿を現し

教えを説こうと思う

仏の力はこのように永遠で、必死に、真心から

輪廻の轍(わだち)から解き放たれるための、

仏の教えを求める者の前には、必ず姿をあらわす。


人類の業が尽きた時、人々が培(つちか)った

あらゆる文明が火に焼かれ崩壊しようとも

仏国土と言われる仏の世界は常住で安定し満足し、欠けるものがない

煩悩に迷える者はこのとき業火に焼かれ、苦しみの絶頂に会う、

この世が苦海であることを悟らず、楽しみ味わう者は、

この業の報いにより、何世にも渡って

仏になる教えとの縁が生じ難い。

発心(ほっしん)をし、菩薩の誓願(せいがん)をたて、善行をなし、

心素直(こころすなお)に仏の教えに耳を傾け、

実践する者がいれば、そこに、仏である私が共(とも)にいる

このように修行が結実し始めている者には仏の命は永遠だと説き、

信ずることすらグラツイている、いまだ修行の及ばない者には

仏には会い難いと説く

仏の知恵はかくのごとく無限、無量でその寿命も尽きることがない

そして、この知恵は長い時間をかけた修行の結果得たもので、

私が特別だったから得られたものではない


知恵ある者よ ここで疑念を起こしてはいけない。

疑念は何度も起きて来るがその度に「信ずるこころ」をもって

疑念を晴らしなさい

仏の言葉は常に良く考えられ、必ず必要な結果が生じる

医者が狂った息子を治すために、方便を使い、

死んでもいない自分が死んだと息子に言い、彼を正気付かせ、

薬を飲ませて治癒させたという話のごとく

仏もその医者と同じように方便を使って、生きとし生ける

あらゆる生きるものを救おうとする者である

普通の人々は、今しか救われる機会はないと言わなければ、

真剣に教えを聞こうとしない。それゆえ、

仏は普遍(ふへん)の存在だと言ったり、

身体は衆生(しゅじょう)と同じだから肉体を持って現れている

今しか救われる機会はないと言ったりするのである。

人は、どんな時でも仏は救ってくれるんだと知ったとき、

残念なことだが、安心してしまい、

よっぽど差し迫った苦しみが襲ってくるまでは、

此の世の楽しみを謳歌しようとし、仏法に見向きもしない

それゆえ、私は人々の、それぞれの機会(苦しみの時)に応じて法を説き

常に、それぞれにとって、この輪廻の苦しみから脱するための最善の方法は何か

どうすれば救済できるかを祈念している。




以上                  


できるならば、音読して下さい。
それにより苦しみの原因である執着が、自分からも、敵からも消え、
それぞれが、生きとし生きるものを慈(いつく)しみ、どんな人でも、
「人として成長できるんだ、仏と言われるような完成した人格になれるんだ。」という希望が
魂の底から湧(わ)き上がってくることを、こころより祈念いたします。

お経にすがるなんて、そこまでは落ちたくないなどとは考えず、素直に只(ただ)試し続けて下さい。必ず道は開いてきます。
 

お経本は仏具屋さんで「天台宗の日常勤行集」と言えば500円〜800円くらいで売っています。
日蓮宗の日常勤行集にも入っていると思います。仏具屋さんになければネットなどでお探し下さい。



さらにお経の力を増したければ十善業をなすことです。

お経の話2

自我偈を長い間あげ続けて下さった方から便りがありました

お経とともに精神世界に目覚めご本人の努力により

見違えるようになった方です。もうだ丈夫だと思います。

その方へは自我偈と一緒に観音経を読む事をお勧めしました

作法についてお尋ねになられ、それに対しての私の答えです


特に作法はありません。

観音経には観音様の誓願が書かれていて、普通は第二十五偈を観音経としてお唱えするのですが、本文の観音経もネットにでているのでそちらも一読しておいて下さい。


大事な事は、もし、自分が観音様だったろどうだろう?と常に考える事です。

苦しんでいる人が自分の名を呼ぶまで、自分は待てるか?
名を呼ばれた時、誰に対しても差別なく自分はその人を救えるか?
どうやって自分はその人を救えるか?
その人にとって根本的な救いとは何か?

精神世界に足を踏み入れた人は自分の生き方として考えなければ ならない事が観音経には書かれています。それゆえに人を成長させる力があるお経になっています。
これらのことを深く考えてみて下さい。


今野喜心



救われる立場の人が、救われたら、今度は逆の立ち場に立たなければなりません

なぜなら、それをしなければ、

人としては当たり前の事ですが、

楽と欲を求めるようになるからです。

苦労が終わった!楽になった!じゃ、これから何をしよう?

苦しかった分、楽しい事でもイッパイさがすか!

これでは「必ず」もとの苦しみの世界に後戻りする事になります

ここからは合理的に考える必要があります

何があったから苦が生じたのか?

なぜ、自分は苦の中に落ちたのか?

どうしたら苦から逃れられたのか?





生きる事は、考えさせられる事ばかりです。

むずかしいですね。

苦しい方には自我偈をお勧めしています

でも、ときどき仏様や神様に、こんなに読み上げているんだから

自分の言う事を聞け!と言っている方がいるようです。

人間の世界で言うと、お金を払っているんだから結果を出せよ!

と言っているようなものですね。

このように心を使ってしまうことがその人の

心のクセで、これを業と言いいます。

この業が深いうちは願い事は叶いません

なぜかと言うと、お経をいくらあげても

口元でパクパク言っているだけで

心では、あれが欲しい、これが欲しい

あいつが悪い、あいつが憎いと

心ここにあらずの状態だからです

最初のうちは苦しいものだから、必死に仏に救いを求め

「仏様助けて下さい!」しかないので、仏の世界に

こころが届き、なんとも暖かい温もりにつつまれたり

えも言われぬ感情に胸を打たれ、涙が流れたりするのですが

その、翌日あたりから、お経になれてしまい、こころが

別な意味で自由になり、先に書いたような状態に陥ります

まさにお経にある通りの人の姿ですね

ならばどうすればいいのかですが、

これもお経に書いてあります

心素直に仏の言葉に耳を傾けようとする事です

自我偈には永遠の仏の救いが説かれていますが

仏の悟りそのものは般若心経に解説されています

知識として仏の悟りを学ぶ事も価値があります

心素直に、尊いものに自然に頭(こうべ)を垂れることができるよう

自分を磨いて下さい。


自分に合わせろ!と怒鳴り散らし暴れるのではなく、

気付いた方が相手の波長に合わせ始めたとき、

初めて和が生じる可能性が生まれてきます

人の世界も同じですね。






神仏はものではありません。お金で動くものではなく

その方の誠意と徳で動いて下さるものです。


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